私は割と筆まめだ。
といってもガチの筆まめの人に比べたらレベルは低い。
年に1度ぐらい友人にふらっとメールやLINEを送るぐらいの筆まめである。
内容は大体どうでもいいことである。
花の匂いがしたので君のことを思い出した、とか。
君の夢を見たので連絡した、とか。
友人には平安貴族と言われる内容である。
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久しく連絡を取っていなかった友人の夢を見た。
やたら高い日本食のレストランで一人でつまんなそうにご飯を食べていた。
寂しそうだな、と、目が覚めてもおぼえていた。
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友人とは学生時代仲が良かったのだったが、決定的な理由があって連絡を取らなくなっていた。
宗教である。
友人が新興宗教にハマって、まあ宗教にハマること自体は割とどうでも良いのだが、会話のすべてを宗教の勧誘につなげるようになってしまった。
正直、話していてつまらない奴になってしまったのだ。
そして、全然連絡を取らなくなった。
もっと、宗教の小ネタとかを教えてくれたら良いのに、なぜか勧誘に全てを繋げるのだ。つまらん。
仏教説話とか、聖書の一説とか、そういうのだったら面白く聞くのに、勧誘はつまらん。
オタクが何かにハマっているのを見るのは良いのだが、こちらを無理に誘ってくるのは鬱陶しいって感じだ。
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夢の中に出てきたやつがあんまりにも寂しそうだったので、ふらっとLINEでメッセージを送ってみた。
夢に出てきたから連絡した、と言って。
数時間後、返信がかえってきた。元気そうで、今度飯にでも行こうという話になった。
宗教を続けているかどうかは聞けていない。
今度話して、宗教に無理やり勧誘してくるようなら、気軽に遊びには誘えない。
勧誘さえ諦めてくれたらなあ……。
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宗教について、病気にかかってから思っていたことがある。
気持ちを紛らわせてくれるなら、少しでも安らかにしてくれるなら、どんな悪徳宗教でも良い、私を騙しに来てくれ、と。
ついぞそんな宗教は現れなかった。
でも、よくよく考えると、現代医療への信仰もある意味宗教であるな、と思ったのだ。
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最近、日本の歴史の漫画が一挙無料公開されていた。
ので、一気に流し読みした。(戦国時代は人が死に過ぎてつらくて飛ばした)
で、昔は疫病が流行ると大仏を作ったりした。
それで民はありがたがったのだ。
効果があろうがなかろうが関係ないのだ。
えらい人が、自分たちのことを思って何かしてくれているという所作や、なにかご利益がありそうであるという雰囲気が大事なのだろう。
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実際、現代の科学信仰も似たようなものではないか。
これは科学軽視ではない。
私は割と科学を信仰している。
でも、なんでスポンジに洗剤をつけてまな板を洗ったら食中毒にならないのかは分からない。
メカニズムについては省略して、なんとなくスポンジでまな板を洗っている。
自分で証明していないメカニズムの軽視を信仰と呼ぶのではなかろうか?
※余談だが、貨幣制度への信仰もあるし、法治国家への信仰もある。
システムへの信仰は科学信仰よりももっと明確に信仰なのだが……余談なので置いておく。
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私は科学を信仰している徒である。
でも、よく考えよう。
私が罹患したのは新しい病気も新しい病気、新型コロナウイルスの、しかも後遺症である。Long-covidだ。
何が言いたいかというと、「新しい」ということである。
科学を信仰しているのだが……科学を信仰しているので、その「手続き」についても信仰している。
つまり、研究したり、論文を書いたり、その論文が査読され、臨床実験を行い、国に承認され……
私が知るだけでもこんな工程がある。
もっときっと色んな工程があるだろう。
つまり、手続きが複雑で……複雑さが真実を担保しているのだが、つまり長いのだ。時間的に。
つまり……私が生きている間に、何か効果的な治療法が見つかるかどうかは分からないということ。
見つかったとして、一般に普及するのか、それが手の届く値段なのか、は分からないということ。
科学を信仰している身なので、その時間がかかるという点についても私は信仰しているのだ。
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信じる者は救われるという。
信仰の対象に盲目であることも、幸せの秘訣かもしれない。
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私は盲目にはなれないが……
カイジを読んだことがある。ジャンケットバンクも最近面白い。麻雀も嗜む程度に嗜むし、たまに宝くじも買ったりする。
つまり、ギャンブルを知っている。
ギャンブル、つまり、何かの報酬を期待して、何かをbetするということ。
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病気になってから、私は何も信仰してこなかった。
私を救ってくれる宗教はついぞ現れなかった。
でも、よく考えると、私は科学技術を信仰し、betした。
科学が、医学がきっと治療法を開発してくれるだろう、そして、それは遠い未来ではないだろうという信仰。
それを信じ、民間治療を頼ったり、自暴自棄になって自死したりしないという賭け。
前例のない病気への対処は、ある種人生の全betだ。
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betについて、病前のbetが病後報酬として返ってきたことがある。
ひとつは社会福祉。
払い漏れがないようにきちんと税を納め、社会保険料を払ってきた。
これも賭けであり、大きな金額のbetである。
betしていなければ、報酬は無かった。
日本の高度な福祉社会の制度にきちんと乗っていたこと、これは私にとって金額的に大きなbetであり、勝った賭けだ。
(賭けであるので、推奨している訳ではない。たまたま私が勝った賭けというだけ)
もうひとつは友人たち。
これをbetというと失礼かもしれないが……
友人たちは大切にしておくべきだ。なぜなら大切にしてもらえるので。
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日々の選択はすべて賭けであり、私たちは日々何かをbetして生きている。
さて、賭けというものは往々にして、betからshow downまで時間がある。
その間何をするか?
祈るしかない。
宝くじを買って、当選日まで、お財布に入った宝くじを見てちょっと当たりますように、と念じるように。
何かに賭けたら、分かるまでは祈るしかないのだ。
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祈りの日々が、もう丸3年となり、そろそろ4年目に突入する。
そろそろ、祈りじゃなく、治療のreturnがきて、リハビリといった次のbetに進む予感を感じている。
しかし、リハビリもまた賭けであり、人生全てのbetなのだ。
なぜなら前例のない病気なので。
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とはいえ、人間すべてそうである。
日本の歴史をざっと読んで思ったが、生まれてから死ぬまで、価値観が変化せずに生を終えられた人類ってどれだけいるのだろう?
平均寿命を終えるまで、生まれたころの価値観のまま……ということは多分、きっと、縄文時代ぐらいまでさかのぼらないと無いと思う。
昔、安野モヨコの展覧会を見に行ってぞっとしたものだ。
だって、私たちの1つ上の世代の、たとえば「専業主婦になる」という人生を賭けたbetはまだshow downされていない。
なのに、もう違う価値観が生まれている。
人間全て、たぶん現代も近代ももっと遥か昔だって、すべての選択は賭けであり、何かをbetして日々生きている。
そして当たりますように、良くなりますようにと祈り続ける。
祈るしかないのだ。でも、それは何かを賭けてからだ。
何も選びたくないならそれでもいい。
それは何も選ばない方に賭けているだけだ。
ならば、何かを信仰して、つまり何かを賭けて祈る方がよっぽど良くないか?
ということで、今は自分の体が良くなる方に、現代医療を信仰して、全人生をbetして生きています。
show downのその日まで、祈って生きていきましょう。
アブラカダブラ、ぽんぽこぴーのちょうすけ、なむなむ。
(余談。何かを説明して、祈りの言葉で〆るのって、構成として般若心経に似てません?)