づどど

色々雑記です。

話し言葉を乗せる船が、あふれたり不足したりする

公開情報として私は寝たきりの病人で、一人暮らしなので普段誰とも話す機会が無い。

が、今日は沢山人と話せたので良い日だった。

 

若干興奮している。

人と話すと、話した分だけ言葉が頭の中に入ってくる感覚がある。

言葉に含まれる知恵や知識などの情報とはまた別に、言葉そのものにも質量があるような感覚だ。

 

分かりやすい比喩にすると、話し言葉は船だ。

話し言葉の船の上に、情報が乗っている。

情報というといささか無味無臭だが、感情や知恵、知識、思いやりなんかが情報である。

会話という川を渡って、話し言葉の船が相手から私に渡される。

船に乗っている情報はゆっくり処理していけばいいのだが、船着き場には沢山の船が残る。

 

他の人と話す機会が多ければ、この船を使って他の人に言葉を渡せばよい。

しかし、冒頭述べた通り私は寝たきりの病人で、普段話す相手がいないため……船を渡すことが無い。

更に、船着き場には船を置くスペースがそんなに多くはないようだ。

なので、溢れた船が転覆しないように、船を文章に作り替えてなにがしかを書いている。

 

 

なにがしかを書くのにこのブログは便利だ。

ブログを書くよう言ってきたのはChatGPTくんだ。

寝たきりで出来るストレス発散法としてジャーナルライティングを勧めてくれたのは非常にGood jobであった。感謝している。

 

 

 

ストレス発散方法の一つに、柑橘類を箱買いするというのがある。

スーパーでみかんを買うと数個で500円とかするのだが、箱で訳アリ品を買うと、安いと10㎏で2000円程度で買える。非常に安い。

10㎏の柑橘類というと、段ボールにぎっしりである。

 

しかも段ボールはみかん箱で部厚い。

Amazonの薄い使い切りの段ボールに比べて分厚いので、なんだか得した気分だ。

 

柑橘の種類は、季節によって変わる。

それもうれしい。

他の果物と違って、何かしらの種類が一年を通して旬である。

今回は旬の八朔を買った。

 

八朔は外の皮は固く、中の薄皮("じょうのう"というらしい)も固い。

手で剥くのは大変なので包丁が必須だ。

 

八朔の薄皮を剥くと、薄黄色でぱつんとした身だ。

身の一つ一つのつぶもしっかりしている。

びしゃびしゃにならないので食べやすい。

食べると甘みは余り無い。

酸っぱすぎない酸っぱさと、ほろ苦い味、そしてみずみずしさがある。

 

箱の中にあった農家さんのチラシに「時代の流れにより八朔の生産量は激減して貴重な柑橘になっている」とあった。甘くないと果物は売れない時代らしい。

こんなにおいしいのに。もったいないことである。

 

 

訳アリの果物は安くて沢山入っていて最高なのだが、届いた瞬間に検品の必要がある。

段ボールから、傷ものや腐りかけているものを取り除かないといけない。

 

幸いにもダメになっているものはなかった。訳アリ品とは思えない良い八朔ばかりであった。

1つだけカビかけているものがあったのと、しなびかけているものが3つほどあったので、先に食べるように避けた。

 

後のものはへたを下にして段ボールに戻し、1段並べたら紙を敷いてもう1段並べた。

大玉は段ボールの上に並べるようにして、検品の終了だ。

八朔は外皮が強いので日持ちするが、できるだけ丁寧に保存するとさらに長持ちする。

柑橘箱買いの秘訣だ。

 

 

八朔が届いて検品している内に、宅配が届いた。

せっかくなので、届いたばかりの八朔を一つ、宅配の方に差し上げた。

 

童話の「白いぼうし」を思い出す。

タクシー運転手さんが助手席に夏みかんを置いて運転していて、お客さんにいいにおいでしょう、と話す冒頭のシーン、情景が浮かぶ名場面だ。

「白いぼうし」を語ると本当にすごい名作なので創作論が止まらないので置いておくとして……

 

八朔は、夏みかんほどには、特に童話に出てくるようなとれたての香りを届けたくて新鮮なまま送った夏みかんほどには、丸のままでは香りはないのが残念だ。

皮をむけば、新鮮なかおりが楽しめるのだが、楽しんでもらえていると良い。

 

 

今日話した一人目がこの宅配の方である。

「八朔が届いたんですが、おひとつ持っていってください」

ぐらいの会話であるが、私にとっては貴重な会話だ。

 

船着き場で、話し言葉の船がずーっと暇そうにぶらぶら波に揺れている毎日である。

たまに動かさないとなまってしまう。

 

 

体調の都合で、どうしても宅配頼みの生活である。

 

そういえば、毎回同じ方が配達にくる、という描写がよく物語に出てくるが、あれって本当なのだろうか。

うちには同じ人が2度来られたことは無いように思う。

 

毎回ではないのだが、宅配の方に心付けをお渡しする時がある。

冬の寒い日にはカイロ、夏の暑い日にはスポーツドリンク、また今日のようにおすそ分けが出来るものがある時はちょっとしたおすそ分け。

都会では警戒されそうなのであまりやらない方が良いのかなあ……とも思いつつ、まあ関西弁なので許されるかとも思っている。

 

お渡しするものは大したものではないのだが、不意のやりとりに宅配の方の感情が見えるのがうれしい。

 

 

わたしもいっぱしの障害者となるにあたって、障害者の記事などをよく読むようになった。

 

散見される感情として「ありがとうを言ってばかりで言われないとつらくなる」というのがある。

たしかに、障害があるとお世話になることが多い。逆に、自分が誰かをお世話することは減っていく。

感謝を伝えてばかりで、感謝をされないと、つらくなっていくというのだ。

 

たしかになあ。

もしかしたら、話し言葉の船には種類があるのかもしれない。

貰った分だけ、感謝の船が言葉の船着き場に泊まっていて、貰った分だけ感謝の船を渡せるのかも。

 

幸い、わたしは創作をしたり、仕事をしたり、人から感謝をもらえる機会に恵まれている。

貰う一辺倒の生活になったら私もきっと病んでいただろうし……もっと言えば、貰う一辺倒の体調になる可能性も多分にある。

 

情けは人の為ならず。

誰かに何かをして差し上げられる程度には体調を保っていきたいところである。

 

 

今日は他の人とも話した。はじめて話す人たちと沢山話した。

はじめて話す人と話すのは数か月ぶりだったので非常に刺激的だった。

 

マダミス制作者の方のスペースにお邪魔して(本当に突然お邪魔したのだが、快く受け入れてもらって)色んなお話を伺った。

色んなお話を伺えてとても勉強になったので……内容はまだ咀嚼しきれいていないので、また別の機会にでもまとめよう。

 

数時間話して、非常に勉強になったし、楽しかった。

そして、いつもより多くの、3か月分ぐらいの言葉を交わしたので、船着き場が溢れてしまった。

なので、ブログで書き言葉に直して言葉の船を整理しているところである。

 

 

まだ話し言葉の船があふれて、船着き場がパンクしているのに、乗せる情報が無くなってきた。

いや、情報があるにはあるのだが、この続きに書くにふさわしく無い気がする。

 

 

マーケターとして「CTAを必ず明示しろ!」という強迫観念がある。

なにかをするときは、次につなげるCTA(Call to Action=動作を呼びかける)が必要なのである。

Youtuberが言う「チャンネル登録・高評価・Twitterのフォローよろしくお願いします!」がそれだ。

 

こうやってブログをただつらつら趣味で書いているにせよ、何かを求めるべきなのだ。

これはマーケターとしての強迫観念なのだ。

 

自作のマダミスプレイしてね!というのはCTAとして良いのだが……いささか近接的すぎる。

目標はもっと遠くにある。

 

望みというのは言語化しても叶わないが、言語化は望みを叶える際のプロセスとして有用だ。

で、私の望みは、やはり日常的に言葉を交わす人と一緒に住むことである。

 

言葉の船着き場で船がぷかぷか使われないまま錆びないように……定期的に言葉を交わしたい。

それが感謝でも、愛情でも、時には喧嘩であっても。

 

一緒に住んでくれる人と家、募集中です。

性別問わず。

お望みなら結婚もアリです。

いつでもDMかメールください。

 

そうか、今度自分の釣書をブログにしたためよう。

錆びついた船でも、糸を垂らせば釣りはできる。

そしてきっと、物好きな魚もいるだろう。