づどど

色々雑記です。

広告と日常体験の境界、あるいはパッケージ化されたエンターテイメントと体験の強度について

ある集団の炎上(集団がいうには「炎上商法」ですが)により、今まで考えていたことと関連するので書きます。彼らのやったことに対しては触れません。

 

 

広告宣伝活動として、インフルエンサーマーケだったり、一般のSNSに紛れ込ませたり、「日常体験」としての広告は増えています。そして、マーケターは生活者の日常体験をより面白く啓発するための企画を日々考えているわけです。

商品やサービスを買わせるための広告ではなくて、商品やサービスを認知し、情報収集し、検討し、購入し、そこからシェアするための導線づくり、全体の消費者体験を形作るのが現代のマーケティングです。(AISASとかAIDMAとかで検索すると良いです。電通さんの提唱してるセオリーです。)

ていうかそもそも4Pから考えると、商品やサービス自体も体験の一部として考えられて、体験のための商品・サービス開発から行うのが最も正しいマーケティングです。

 

 

 

雑にわかりやすくします。

週刊少年誌の漫画は、漫画19ページないし、コミックス1巻分の「面白い漫画」が商品ではあるのですが、生活者が受ける体験は「面白い漫画」の面白さだけではありません。

毎週決まった曜日に週刊誌を買うこと。紙のにおい。部屋に積まれた雑誌。あるいはスマートフォンに配信される漫画。

掲載順位というエンターテイメント。巻末のコメント。

コミックス派の人は、ネタバレをSNS上で避けつつ発売日を待つこと。

新刊発売日には本屋に行くか、コンビニで売ってるのを見かけてうれしくなって購入して、感想をSNSに書き込んで、友達と盛り上がったり。二次創作をしていいね!をもらったり。

「面白い漫画」を軸にして、多様な体験があります。これがすべて生活者が享受する「面白さ」です。

 

 

 

んで。

週刊少年誌というシステムはある程度日常への浸食に成功しているわけなんですけど、その中身の漫画だったり、映画だったり、小説だったり、というのはパッケージされてます。

「面白い漫画」に関連する体験は日常に浸食していても、「面白い漫画」は、少なくとも読者に読まれるまでは、日常を侵食しない。

普通、エンターテイメントというのはパッケージされているものなのです。なので、「この作品はフィクションです」というのが成り立ちます。

 

 

それを、マーケティングの側は外側から破壊しようとする。それは一側面から見れば正しい破壊ですが、エンターテイメントのパッケージは果たして耐えられるのでしょうか。

たとえば、企業公式ツイッターなどは「面白い」「親しみやすい」というキャラクターをもって、日常に浸食します。これは割と受け入れられて、企業公式ツイッターというエンターテイメントは日常に馴染んでいる。

 

マーケティングは生活者の日常とエンターテイメントの間にある境目を意図的に壊そうとしています。壊して、馴染み、生活者の日常に溶け込むこと、日常体験の一部になることがマーケティングの最上位の成果ともいえる。

 

 

これから、マーケティング、広報、PRはもっと「楽しいこと」を仕掛けてきます。たぶん。毎日めちゃくちゃ頭の良い人たちがいろんなPR手法を企画して、どう面白い体験をしてもらうかを考えている。めちゃくちゃ頭のいい人たちが、しかも、「広告宣伝費」という予算枠を持った人たちが、です。

 

 

 

従来のパッケージ化されたエンターテイメント、映画、小説、ゲーム、漫画、そういったものたちの弱みはパッケージ化されていることです。

絶対的な「この物語はフィクションです」。

小説やコミックスは読まれない限り読まれない。購入されても、積まれるかもしれない。映画だって、席についてもらって2時間座りっぱなしでいてもらわないといけない。ゲームは起動してもらわないとチュートリアルが始まらない。ましてやすべてエンディングまでの道のりは遠い。

エンターテイメントの側から日常に溶け込むのが非常に難しい。というのでナラティブな作品作りとか、新たな宣伝手法とか、色々四苦八苦している訳なんですけども。

 

 

つまり、パッケージ化されたエンターテイメントは、体験の強度が、なりふり構わず日常を侵食する広告に負けるんですね。広告がもっとエンターテイメントを取り入れて、生活者の体験を面白くしてきたら、恐ろしいですけれどもパッケージ化されたフィクションが不要になるかもしれない。ゲーム理論が発達して生活自体が娯楽化してしまう、させてしまうことも可能である、ということですね。ガッチャマンクラウズを見ましょう。

生活者が娯楽を求めない世界。

娯楽としての「体験」が広告で賄われてしまう世界。

まあそこまで完璧なマーケティングが世界全体で行われるのはSFなので、ないんですけど。でもまあなくはない。

 

 

 

で、ここから3つぐらい考えられることがあると思っていて。

 

 

まず1個目。

絶対的な「この物語はフィクションです」は強みにもなります。

冒頭触れた炎上していた事件ですが、あれは批評として映画や動画にしていたら全くもって炎上しなかったでしょう。それは批評という表現だからです。

つまり、パッケージ化することで、日常と分かたれているということで、批評性を持ちます。フィクションの中で表現の自由を広げられる。現実に起きている問題をあらゆる面から批評できる。これはパッケージ化のメリットです。

 

これは、生活者と馴染ませた広告の領域ではけして表現できない表現内容です。生活者の領域に食い込んでいる広告では、体験の強度が強すぎて、表現したら炎上します。

 

広告領域でも、意見広告としてうまくやれば企業イメージの向上として扱われるんですけど、めちゃくちゃうまくやらないといけません。あまりまねしない方がいいです。大体炎上してるし。

 

ということで、1個目はパッケージ化することで「批評」ができる、ということ。

 

 

 

2個目。

パッケージ化されたエンターテイメントをこころざすひとが、マーケターになっちゃえばいいんじゃない?ということ。

 

パッケージ化されたエンターテイメントは、それ自体が商品であるので、売り上げが収入です。なので色々制約とかが発生するんですけど。

マーケティングにかかる費用は「広告宣伝費」という名目です。簿記は便利なのでぜひ勉強しましょう。

広告宣伝費って最近ピンチでありチャンスなんですけど、「マス媒体が機能しなくなっているので何に使えばいいかわかんない」状態なんですよ。新聞・テレビ・雑誌なんかに今までどーんとお金(何百万~何千万)をつぎ込めばある程度のimpがとれて、売り上げが上がっていた。

しかも、何百万~何千万という広告宣伝費を使えない企業も増えてきた。というかむしろ使わなくてよくね?って企業も増えてきた。

んで、代わりに、ちゃんとしたブランディングストーリーだとか、ターゲティングだとか、いかに生活者に届けるか、どの生活者に届けたいか、どういう物語で語るべきか、どういった体験を届けるか、という問題が俎上に上がっているわけです。

 

ほら、ストーリー&テリングとか、映画・漫画・小説・ゲームなど、パッケージド・エンターテイメントを志す人の十八番じゃないですか?

 

 

ていうわけで、エンターテイメントを志す人は、パッケージド・エンターテイメントはもちろんなんですけど、糊口をしのぐ方法として、マーケティング領域も選択肢にありますよ、というのが2つめ。

 

 

 

3つ目。

パッケージドエンターテイメントも、パッケージを破ってしまってもよいのでは?ということ。

物理的にビニールを破るとかではなく、本や映画、漫画という媒体自体がアイテムとして機能するような。

 

私的な体験談です。

前に、二次創作なんですけど「作中キャラクターが書いて出版した本という体の同人誌」を発行したんです。そしたら、買いに来てくれた方が「この本を作ってくれてありがとうございます!」と言ってくれた。まだ中身なんて1Pも読んでないのに、です。つまり買ってくださった方は「作中キャラクターが書いて出版した本」が欲しかった訳で、確かに、キャラが書いた本が実際の本棚に並ぶの、めちゃくちゃうれしくないですか。私も欲しかったので作りました。

みたいな。

そういう包括的なエンターテイメントとして、メディアミックスとはまた違う、プロジェクトとして考えられると面白いですよね。

 

というわけで、3つめとして、面白い「企画」とか「座組」ができると良いですよね。

これはプロデューサーの役目?なのかしらん?

職業名ごとに何やってる人なのかもう少し分かりやすくなると就活やキャリア設計がやりやすくなりますね。

 

 

 

だらだら書いたんでまとまってなくてよい文章とは言えないんですけど。

小説書きたい!シナリオ書きたい!物語つくりたい!って思いながら、マーケターとして仕事している、境目にいるひとからの報告でした。