づどど

色々雑記です。

生活を憎みましょう、武装をせねば生活ができず、剥き出しでのみ表現ができるということ

EVIL A LIVE、めちゃくちゃ良かったですね。EVIL LINE RECORDSの5周年フェスです。

2次元、3次元、4次元、次元がゆがみまくってごちゃまぜで、「ニッチ」であり「闇鍋」であった。次元というのはもう今や何の隔てもないという時間であり空間でした。非常に良かった。

https://open.spotify.com/playlist/37i9dQZF1DXaNxmPL2QLGi

事前に用意されたLIVE関連アーティストのプレイリストを流しながら書いています。

 

なんというか、久しぶりに剥き出しになった気がしたので、ついでに書き留めようと思います。

武装をせねば生活ができず、剥き出しでのみ表現ができるということ。または、剥き出しになったときにようやく気付ける「表現に飢えたあの子」のことについて。

 

私は普段、割とまじめに普通に働いているサラリーマンです。

日々マーケター兼データアナリスト兼SEOライター兼営業兼うんぬん……とまあ色々幅広くやっています。

んでまあ、割と楽しく働けるタイプの人間ですし、懐に入り込んだり腹の探り合いして情報を隠したり出したり交渉したりなんかが得意で、営業やらディレクションやらもやれといわれればやれるタイプの人間です。

 

なんでやれるかというと、わたしは自分に嘘をつくのが非常に得意です。嘘をつくには9割本音を混ぜるといい、というのは「王様達のヴァイキング」の笑い猫に教わったことなんですけれども、とかく、自分を騙すのがうまい。

嫌なことでも、嫌ではないと思い込んだら大抵のことはやれます。私はかたくなに大嫌いなものがたくさんあるんですけど、嫌いなタイプにあてはまる会社に営業に行くときには本気で「御社はすごく素敵です!!!」と心から思って営業しに行きます。その時の私に嘘偽りは一切ない。

私はそういう武装ができるタイプの人間で、逆に言えば武装をせねば生活ができない人間でもあります。

 

時々、本気で天真爛漫な人間っていますよね。そういう人ではない。天真爛漫であるふりができるだけの人間です。そういう武装

 

 

んでまあ、今日のライブが非常に良くて、武装が全部剥げて剥き出しになっておるので、とりあえず書き留めておこうと思ったのですが、剥き出しでは私はまったく仕事ができない。

武装をはがして、魂的なものが剥き出しの私は、感受性が強くて、センシティブで、感じやすい。傷つきやすくて、かたくなです。嫌いなものは嫌いだし、すぐ泣くし、人嫌いで、引きこもりです。今これ書いてるのも怖い。怖いし、つらいし、痛いし、書きたくない。人と関わりたくない。

でも救われたい。もうずっと救われたくて、でも何をしたら救われるのかもわからなくて、誰かに救ってほしいとぎゃーぎゃーわめきながら書くことしかできずにいる。

 

 

表現をするには、剥き出しでないといけない。

武装をしたままで、書けるものって非常に戦略的で理性的で利他的で、SEOライティングするならそれでいいんですけど、感情は伴わない。ETML的(※ハーモニー)な感情なら乗せられますが、生の感情ではない。

武装をしたままで書けるものは、おそらく武装をした上までは届くと思う。でも剥き出しの生身には絶対に届かない。剥き出しなものを、傷つけたり、触ったり、包み込んだりするには、まず剥き出しにならないと表現にはなりえない。

 

んで生活を憎みましょう、に繋がるんですけど、生活のための武装は、自宅に帰って部屋着に着替えるみたいに簡単に剥げるものではない。

生活のための武装は、たとえば2日休んで体調を整えて、3日目にライブに行って感動して明日も休み、ぐらいの余裕がないと剥がれない。徐々に少しずつはがしていって、ようやく剥げるもの。しかもまた、生活のために武装を着なければいけない。武装をしないと、簡単に傷ついてしまうので。

私の剥き出しの中身は傷つきやすくて、生活をするには脆すぎる。だから私は生活を憎む。

本当は剥き出しの生身で表現をして、表現に飢えている「中学3年生だったわたし」や「高校2年生だったわたし」に向けて、それを包み込むための、癒すための表現を成したい。私は誰かに救ってもらおうとして、全然救われなかったので、私を救うのは私しかいないと知っている。

生活のための武装をしていては、成しえないもの。「表現に飢えたわたし」に向けた表現。「表現に飢えたあの子」を表現で満たして救うこと。

 

生活を憎みましょう。

私は、普通に働いていて、営業だの交渉だの情報収集だの、武装がいつだって必要な仕事をしている。武装して、嘘ついて、自ら着こんだ武装にすら傷ついている中身を無視するだけの武装をもって、生活を成す。そんな生活を憎みましょう。

 

 

書いておこうと思ったのは、なんだろう、剥き出しじゃないと表現はできないから、傷つきやすい表現者はまったくもって正しいということ。私が表現と生活を両立させているという風に見えたら、それは全くの間違いで、私は2人の私を不器用にも使い分けているだけである。

生活をするにかまけて、武装せざるをえず、表現ができていない天才が幾人も存在するのだろう。わたしはそれが憎い。生活を憎みましょう。私は生活によって埋もれさせられた天才の表現を求めている。彼らが表現してくれていたら、私はとうの昔に救われていたかもしれないのだ。だけれども、天才は生活によって殺される。生活を、私は憎もう。憎みながら生活をして、私は武装をして、時々剥き出しになって、表現を続けよう。

 

 

もし、将来、いかなる理由においても武装が剥げなくなって、剥き出しの自分をいつか否定してしまうことがあったとしたら、それはそれで仕方ない。

でも言っておく、剥き出しにした途端傷つくだろうけれども、私は傷ついてやってきた。傷つくのは当然なので、すごく楽しそうなアーティストのライブにでも行って、表現に飲まれて剥き出しになろう。生活よりも、大切なことがある。少なくとも、生活より表現を大事だと思える私を、将来の私にも選んでほしい。

 

高校1年生の時、私は、将来の私に向けて、「物語を書くことを選んで、どれだけ落ちぶれても、私はあなたを許しましょう」というテーマの小説を書いた。あの時の私は慈愛に満ちていた。あの時書いた小説のある種の脅迫において、私は生き延びている。

武装をして生活を憎む私は、将来の私に向けて言おう、「生活を憎みましょう、剥き出しの生身で傷ついていこう、そうして、傷と向き合いましょう」。

そういうエゴを、剥き出しになった今日、得た。

 

生活に甘んじず、生活を憎みましょう。

生きることなど、もう2度3度も死んだ身には余りある。